繰り返される悪政は後に数千年後も大した変化はない。
と、個人的にそう思う。
それは何かしらに失望した観測でもないし、何かしらに期待していたからではなく、人間という動物が物事を処置した際の限界が其処にあるのではないかと考えるからである。
いわずもがな全体の政治や統制がそうであるとは思っていない、増してテクノロジーに関してはそうはならない、兎角人間はそこに関しては優れている生物だ。
しかしながらとある社会主義国家の2022年という年代になってからの超暴力的アクションは列記としたヒューマンエラーだと思う。
民主か社会か等以前の問題解決に向けての方法論である。
今更かよと、今更に暴力か・・・前言撤回。 やはり失望である。
思い通りにならないことがあったのは分かる、非常に因縁深い歴史的遺恨も分かる。
NATOの件も怖かったろう、色々と事情があるのは分かるのだが、100歩譲っても、どこまでも暴力なのか。
猿人かと。
独裁的政治の背景には様々な事情があるのだと思う、人間は力を持ったからには行使してみたくなる生き物だ。
一人で12兆円の資産(本当か?)を手にして、1億4千万人の意思決定をして、一国の軍隊を自由に動かせて、1千7百万キロ㎡の土地をコントロールする。
どんな気分だろう。
神に近付いた気分だろうか。
そんな大層なものではない、人間だ。 どこまで行っても、人間でしかない、この愚直なバイク屋のオッサンと同じ性能の人間だ。 頭が少しいいとか、お金を沢山持ってるとか言うが、同じ臓器のくっついた高が人間なのだから、自分をよく知った方がいい。
紀元後2000年越えても雨を効率的に凌げずにワイパーを動かし続ける人間だし、石油無しで空も飛べない。 ワイパーなんて、発想としては江戸時代にありそうである。
力は持ってるんじゃない、誰かに選ばれて、育てられて、誰かを守るためにあるんだと思う。
同じ様に、会社組織においてもそうである。
成熟していない人間に不相応な立場と力を与えるとやはり同様の力の使い方をする。
立場を使って他人の権利を奪ったり、非合理な仕事を強要したり、自分の利権を優先させたがる。
そしてその観念の持ち主こそ、そういう人間を選出する傾向がある。
資本主義の元においては、儲かればそれも万歳という視点もありますが。 確かにそれもそうだとは思うのは店主の恥ずかしい懐事情に痛く感じ入ります。
力を与えられたら自分を主体に置くべきではない、借り物の力なのだから。 借り物は、借りている人々に返せばいい。
バイク屋も同じ様なもので、所詮バイク屋。 されどバイク屋。
政治家もバイク屋も、社長も役員も医者も溶接工も、皆誰かに支えられて其処にいるのだから、最後まで勘違いしてはいけない。
だけどそんな与えられた能力のお陰で、誰かを少しでも満足させられるなら、そりゃアンタ、儲けもんだよと、その上なけなしの安月給でかみさんに怒られながらも、牛肉の少ないおでんを食う。
小さな幸せってそういうもんだよって、店主はそう思うんです。
正に今物心つくかどうかの子供がミサイルで粉々になるまで人生と共に破壊されている筈。多少の情報操作があったと差し引きしても、子供が死ぬのはやはり容赦は憚られる。
彼らにとっちゃ、右も左も分からんし、明日もサッカーをして遊ぼうかと思っていたのに、いきなりミサイルが飛んでくるわけですから。 かなわんです。
だからミサイル打つときは考えてくれよと、粉々になった子供が20歳になった時、俺は子供頃サッカーやってたんだよねと、飲み屋で管を巻く彼の時間と、嬉しそうに聞いている彼女の微笑みもそこに含みだぞと。
とは言っても、少し諦めも肝心かなとは思ったり致します。
なかなかそこは無駄な無力感を感じるよりは、他国の与り知らぬ他人事とする冷却装置も必要ではある。
とは言え、先述しました様に、これは小さな組織から大きな組織まで、日常的に問題点の一つとしてワイドショーを賑わせている原理的な問題でありますから、ここはチャンス。
この原理原則を理解して組織構成を構築することは、決して無駄骨ではないのではないかと思う日々でございます。
まぁいろいろと書きましたが、今回のこの戦争。 落としどころは一旦かの国のやりたいだけやらせてみるしかないのでしょうね。後始末(落とし前)はとんでもないことになりそうですが。
ご本人もそう言ってますからね、人命もそうですが、動物の生命が尊重されない社会は悲しいもんですね。
戦争は反対しない、戦わないと人間は生きていけない。 戦う手法をもっと検討しなくては。 オリンピックにその力があれば100メートルも7秒台に入るか。
お、そんな小説があると面白い。 世界政府が出来て争いごとはあらゆる競技で熾烈な戦いをする小説。 あらゆる競技ルールは国際法で決められている。 綱引きとか。 ご隠居になって生きてたら書いてみるかな。
店主はいつも空想と思い出の中で生きている。