屋上は寒い、冬の風は無駄に強いし、これっぽっちも役に立たない。
他にやる事は山ほどあるのに、屋上に上ってみたくなった。
注:たまにはこんな風合いの書き方も面白いかと思った今回でした。 筆遊びでございます。 芦田屋店主
歳をとってもセンチメンタルになりたい時がある。 正確には歳を取ったなりのセンチメンタルを味わいたいのである。
近頃殺伐とした記憶が海馬を取り巻いている、そんな時はちょっとは感傷的になりたい時がある、誰だってそうだろう。 いやそうでもないか。
取り分け何か特別な事があったわけではないのだが、生きている時間が殺伐としてくるとどうも記憶がゴチャゴチャと雑多な池袋の街頭のような様相を呈してくる。
ああ、生きているだけで精いっぱいだ、自分の生活が濁流の様に流れてゆくのだ。
明日はアレをやって、これをやって、だれそれの話を聞いて、あいつの問題を解決して、だれそれに説明して、誰それには怒られるんだろうなぁ、そんなこんなの日々できっと毎日は濁流のように流れてゆく。
寝る前に考えるのは明日の仕事の事、そんな日々も嫌味なくらいにサラサラと風に翻弄された砂の様に流れていく。
多分、忙しかったのだと、そうだとても忙しいのだと。
忙しい自分をなだめすかして、日が傾いてゆく。
悲しくもないし、別に空しい訳ではない、ただただ生きているだけなのだ。 生きるために、大事な物を守るために必死で戦っているのだ。
人生ってそんなもんだろうと自分に言い聞かせているのだろう。
さすれば馬鹿みたいに屋上に上って夕日に向かって叫んでやりたいもんだ。
いうなればあれだ、夕日に向かってバカ野郎だ。 実際は言う訳もない、でも心で言ってやれ。
色んなジジイに歳をとったら感傷的にはならなくなると言われたけど、俺は生まれてから死ぬまでずっと感傷的だ馬鹿野郎。 一瞬だって冷静に見てやいないぞ、ずっと心で物事見据えているんだ、どうだ中二病だろう、羨ましいだろう。
燃えるような夕日にずっと遠い過去を重ねてみる。
記憶が消えていく。
気付いた時には、色々と思い出せなくなった。 子供の頃の故郷の風景や、友達だった人たちの名前、好きだった人の顔や、名前、ガキの頃に上ったあの山は一体どこにあったんだろうか。 通った中学校の場所が思い出せない。
過去はどこに行ってしまったのだろうか。
少ないが、過去に何人かそんな人に会ったことがある。
その人の話を聞いた時に寂しかったのを覚えているが、自分もそうなるとは思わなかった。
何故か祖父を思い出す。
死んでもう28年以上経つが、祖父の記憶はまだかろうじて此処にある。
彼はまだこの海馬に生きている、彼の存在は無ではない。 だがいつかは俺もこの世からおさらばだ、そうなったら祖父はほぼ完全に消滅するだろう。
思い出さなきゃな、長生きしなくては、そう思う、今はまだ忘れてしまっては忍びない。 存在が大事だろう。
祖父が若かりし頃、色々あったろう、危ない目に遭ったこともあるだろう、恋をしたこともあるだろう、校舎の窓から校庭をぼんやり眺めたかもしれない、皆そんな素敵な記憶をかろうじて心に留めているんだな。 だけど祖父がそうしていた事や、そんな出来事はもう誰も覚えていないだろうし、その記憶を持っている人は存在しない可能性が高い。
生きている時間は記憶消滅するまでのカウントダウンなんだな。
仕方ないさ、今更それはもう仕方がない。
日が暮れる、あっけない。 拍子抜けの話題作の映画の様だ。
とりあえず、寒いし、家に入ってYou tubeでも観るかね。
日々の馬鹿野郎。