世界の混乱の沈静化はまだまだその手掛かりすら掴めず苦難の日々は続く。
動画サイトなどで、かつて、ウイルスなど気にしていなかった頃の動画を見ると妙な感覚を覚える。
マスクをせず大声で会話を掛け合っているだけで、どうも眩いというか、そうか、それすらも一つの幸せな社会の形であったのだと気付かされる。
最近では咳は勿論、人前で大声で喋る事すら憚られる日常にはなかなか苦心する事が多い。
大切にしなくてはならないものは、やはり惜しむらくは失ってしまうものだろう。
先日のニュースでも妙に引っ掛かるニュースがあった。
建設系の社長が反社の組織との食事会に出席してしまったが故に、会社は倒産して社員は路頭に迷ったというものだ。
あぁ、こういうのは大体が密告だよなぁと思いつつ、そういえば店主もかつてそういう事態に巻き込まれたり、疑われたことがあったなぁと思い出した。
こういった風に、文章を比較的多めに書いている。 という単純な事実だけでも、客観的にはそういう事をやりそうだという人物に思われてしまうのは、思わぬ副産物であろうか。
良い面も悪い面もあるのだが・・。
且つていた業界では怪文書なる物が良く出回っていた時期がある。
所謂、匿名で個人的な意見を対外的に知らしめる為の手法として用いられる訳だが、結構このタイミングでは、店主はやりそうだと多少は言われたことがある。
店主としては苦笑いで、「いやいや、確かに色んな事に不満はありますが、それは誰しも同じ。 流石にそこまではやらないですよ」と否定するしかないのであるが、そもそも、そう思わせてしまう自身の日々の立ち振る舞いの程度の低さを悔やんだ。
怪文書というのは、はっきり言って、絶対にやらない方がいい。
幾つか理由があって、まず第1に、匿名の怪文書は絶対に、効力を発揮しない。 何故なら匿名という段階で、周囲は、世間は、誰の意思かも分からない物に対して、誰も共感を覚えないし、感情移入ができない故に、共闘もしてくれないからだ。
そんな物は明日にだって忘れ去られる。
第2に臆病すぎて恐れるまでもない。 面と向かって文句も言えない様な相手は、相手にされない。 故に間違いなくスルーされる。
そうして、怪文書はもやもやと不快感だけを残したまま、時の流れに流され消えていく。
だから、もし何かを、自分の思いを発信したいのであれば、尚且つその結果を多少なりとも得たいのであれば、まず最低限でも名前は晒さねばならない。 そして、それらの行動と発信は多大なる味方と敵を量産してくれるであろう。 結果大敗を喫するかもしれないが。
あぁめんどくさい。
誰がそんな面倒な事をやりますかね、大多数の不満を抱えているであろう人々の為に?
個人的な攻撃の為に? そんなに粘着質でもないし、面倒はまっぴらごめんであります。
でも、いざやらなければならない時があるのであれば、大切な人を守る時が来たら、正々堂々と名乗り出て、体と心がぶっ壊れるまで逃げないし、あらゆる手法で戦いますがね。
どうしてもやるのなら、記名された文書を然るべき場所に送り付けてやればいい、そうしておけば、ほぼ間違いなく相手はリアクションを取ってくれる。 そこで足元をすくってやる罠を、手紙を送る前に重々検討したのち、あらゆる段取りを取って予防線を張っておけば良い。 もしくは然るべき場所に赴いて、聞き逃せない場で聞き捨てられない相手もいる中で、提言なり批判なりをやればいい、無論だがその前に然るべき根回しは忘れずに。
さすれば道開かれ、平和の道となるか戦争の道となるかはさて置き、事は進むのである。
まぁそんな事柄のお陰でどえらい迷惑を被ったこともありましたが、今では会社員時代のちょっと懐かしい思い出です。 しかし、疑われたという事は客観的にその程度と思われていたんだなぁ、自分が情けない。
しかし、話を戻しますと、その反社の会に参加してしまった社長さんもなかなか苦しい所であったと思います。 擁護する訳にもいきませんから、ダメなものはダメという所ですが、色々と事情はありつつも、避けて通れぬ羅生門ってやつですかね。
芥川先生もうまく言ったもんであります。いや言ってないか。
近所のカレー屋さん飲食店さんの応援も兼ねて昼食に行ってきました。
迷惑になるかもしれないので、名前は出しませんが、どこのカレー屋さんよりも絶対に旨い。
カレーは絶対ここで食べます。
ほうれん草バターチキンカレー甘口、ナンとアイスチャイ。
実家のカレーが食いたくなってきたぞ。 当面帰れなさそうだが・・。
兎に角飯が食えるうちは幸せなんだなこれが。 それだけで十分。